「天空の城ラピュタ」で、空賊の女親分と髭の兄貴のモデルがいました!

「天空の城 ラピュタ」
今年も盛り上がったようですね。

映画館では見なかったラピュタ

私はと言えば、完全に宮崎駿さんの作品と成長したような世代。

ほとんどの作品は映画館で見ています。

当然、ラピュタも映画館で見ました、と言いたいところなのですが、つまらない理由で見に行きませんでした。

その理由は、あのロボットです。

あのテレビの最終回「さらば愛しきルパンよ」が大好きで、そこに出てきたロボットをラピュタに出したのがどうしても好きになれず、見に行かなかったのです。
今となっては、本当に馬鹿ですね。

その後も、どうも好きになれずほとんど見ていませんでした。

でも、断片的にですが何度も見直すうちに、やっぱり凄いなと思い始めたのです。

そして、ある人とメル友になった事である事実を知ることになりました。

宮崎新さんとメル友に

2015年、宮崎駿さんのお兄さんである宮崎新さんとメル友になりました。

きっかけは、私が書いたブログです。

宮崎駿さんが鹿沼に住んでいた事を書いたのです。
そして「少し違うよ」と色々と教えてくれました。

鹿沼のことも色々と質問をさせていただきました。

鹿沼市役所そばに住んでいたことはわかっていたので、今宮神社の写真を送ったりして。

やりとりしている中で、宮崎駿さんの作品のこともたまに話が出てきました。

その中にあったのです。

ラピュタの事が。

「天空の城ラピュタ」で、空賊の女親分は、母のイメージ

メールの中で、新さんはこのように書いています。

『「天空の城ラピュタ」で、空賊の女親分は、母のイメージ』

この人、

う〜ん、どうも迫力がありすぎですね。

こちらの方が、あっているのでしょうか。

優しいけれど豪快!
そのようなイメージだったのでしょうか。

何しろ、宇都宮大空襲の際には宇都宮市市役所そばから、鹿沼まで夜に逃げてい人たちです。
今では、想像できないようなことを経験されているのでしょう。

ひげの兄貴は、私(宮崎新さん)のイメージ

そして、このように書いています。

『ひげの兄貴は、私(宮崎新さん)のイメージだそうです。』

この3人の、真ん中の人ですね。
きっと。

この後喧嘩になって、ボコボコに!

そして、新たさんはこのようにも書いてくださっています。

『これは、駿に直接確かめましたから間違いないようです。』

新さんが鹿沼市立中央小に1日しか行かなかったのはケンカが原因!

それにしても、あの殴り方って不思議ではありませんか?

宮崎さんご家族は戦時中宇都宮市に疎開され、宇都宮大空襲の時に鹿沼に逃げています。

この頃、ケンカが日常茶飯事だったそうなのです。

特に、鹿沼に避難して初めて小学校(鹿沼市立中央小だと思われます)に登校した時、ケンカになってしまいました。

このように書かれています。

疎開して数日後に近所の小学校へ行きまして、数時間の授業を受けました。

国語の時間に「読む」ことを指名され、読みましたら、放課後に「町の言葉」といちゃもんを付けられ、殴り合いになってしまったのです。

一人対一人の時には勝ったのですが、数人の加勢に合いやられてしまいました。

女性とたちが止めてくれたのですが、それ以来、登校を拒否したのです。

女の先生が迎えに来てくれたこともありましたが、拒否し続けました。

当時は、いじめやケンカが日常茶飯事だったようです。

ちなみに、鹿沼市立中央小は私の出身校でもあります。

とても親近感が湧きますね。

東京に戻った時にも色々とあり、このように教えてくれました。

『お分かりにならないとは思いますが、疎開先での「いじめ」は大人の世界だけでなく、子供の世界でもひどい物でした。

昭和25年4月に東京に戻ったときにも、疎開帰りとしてのいじめはありました。

私は弟たちを守るために、又、疎開から戻ってくる学友のために、暴力をもって対抗していましたから、かなり顰蹙を買ったと思われます。

昭和26年に中学に入るとともに、いじめは無くなり、私の暴力的な対抗もなくなりました。

でも、中学ばかりでなく、高校に入っても、転校生はかばっていました。

ですから、駿や他の弟たちにとって、私は暴力的なイメージが強いと思われます。

このイメージが、あの髭の兄貴になったのかもしれませんね。

喧嘩にはルールがあった

最近の日本の映画やテレビドラマを見ると、喧嘩するときに必ず道具を持っていますよね。

鉄パイプとか。

そのような事はなかったそうです。

ここも、メールを読んでください。

『戦後、鹿沼から戻ってからの喧嘩は、闇討ちはなくなり、1対1とか、2対2で公平に戦いました。 

周りで見ている者が、この辺でと思うところで止めさせるのです。

こんな喧嘩を先生たちは知っていたと思いますが、叱られたり、止められたりすることはありませんでした。』

ここを読んでみると、まさに「ラピュタ」のあの殴り合いをイメージさせられますね。

それにしても「闇討ち」という言葉が普通に出てくるのが、時代を物語っていますね。

鹿沼は最高の思い出の場所

宮崎新さんにとって、鹿沼市に住んでいた頃はとっても楽しく過ごされています。

このようにも書いてくれています。

『とにかく、鹿沼といえば私の幼児期の最高の思い出の地であることに変わりないのは今も全く変わっていません。』

晩年は、海外で生活

宮崎新さんは、晩年チェンマイで生活されていました。

いただいたメールからは、ゴルフをやったり海外旅行に行ったり楽しんでいる事が伝わってきました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA